内閣法制局長官の人事が話題になっている。
例えば、
「内閣法制局は集団的自衛権の行使は憲法上許されないと解釈してきた。
行使容認に強い意欲を示している首相は、
解釈変更の布石として小松氏を長官に起用したとみられる。」
とあるように、内閣法制局が憲法を「解釈」し、またその「解釈」を
変更できる、というわけだ。
私は、そもそも日米安全保障条約は問題だらけだと思っているし、
特定の国と軍事同盟を結び、その相手が戦争をすれば
一緒になって戦争をします、という考えには同意できない。
しかし、この記事で私が問題にしたいのは、安倍政権が
自分の都合の良いように「憲法解釈」を変更しようとしている、
ということではない。
問題なのは「憲法解釈」なるものを司法的になんの権限も無い、
内閣法制局なるところの役人が行い、
その役人が国会で「自衛隊は合憲です。」とか、
「米国との軍事同盟のために、米国と一緒に戦争をするのも合憲です。」とか言えば、
それがまかりとおるこの国が、私にはまったく理解できない。
私は小学生の時に(何十年も前だが)、
「日本は三権分立です。」
「最高裁判所は憲法の番人と呼ばれていて、法律や、行政の行いが憲法に違反していないか、判断をするところです。」
と教わった。
憲法を役人が「解釈」するのは勝手だが、
憲法に合致するのか否かを判断するのは司法の役割であり、権限である。
にも関わらず世の中は、
まるで内閣法制局が合憲と言えばそれで答えが出たかのような論調である。
そして、「憲法の番人」たる最高裁は
例えば、自衛隊の憲法判断について
「高度な行政行為によるもので司法で判断すべきでない」
というようなことを言って、判断を避けている。
こんなバカな話がなぜ、まかり通るのか?
憲法には「軍隊を持たない」と書いてある。
自衛隊が違憲なのは小学生でも分かることだ。
そして、軍隊を持つか、持たないか、というようなことが
「行政行為」で済まして良いわけがない。
最高裁は「憲法の番人」の役割を投げ捨て、
憲法を空洞化させ、
国民が行政の行為を法に問う権利を奪っているのだ。
最高裁ははっきりと、「自衛隊は違憲」と判断をだすべきである。
そして、政府に「対応」をせまるべきだ。(判決を出すことで)
違憲判決がでれば、政府は二者択一しかない。
一、 自衛隊を解散する。
二、 憲法改正を国民に問う。
政府がどちらを選ぼうとも、それで憲法が変えられても、
これが「立憲国家」「法治国家」のまっとうな対応ではないのか?
このような「司法」と「行政」を「役人」とともに、続けてきた政治家の罪は深い。
そして、このようなことを全く問題にすることなく、
「戦後60年も憲法は変わってないんですよ。たった1/3の反対がいると憲法は変えられない。
96条を変えましょう」
などと言っている政治家を見ると怒りがこみ上げてくる。
その政治家を選んだ選挙民を思うと本当に悲しくなる。